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趣味で図画工作をするじむいんのweblogです。

ふつうの人に会ったことは無いのに

最近、漫画を描いている。

今日は就職浪人した時のことを描こうかな、と思ってネームを切っていた。わたしはライフハックとかhow to ものの本がきらいなのだけれど、就職活動をしていたときはそればかり良く読んでいて、そのことだけでもまったく判断力を失っていたのだなと分かった。

(判断力を明け渡すことはとても危険なことだ)

 

 

生き方を指南する本はそのほとんどが前提の時点で誤りをおかしている。それは、「万人がこのようにすればできる」という前提だ。その方法によって出来ないのであれば、読解力の不足か(それはテキストをより緻密に読み込むように、という命令で補われる)、努力の不足か(それはテキストに従って達成出来るまで反覆するようにという命令で補われる)、と見なされる。その人が「初めからそのようには出来るはずも無い」のだ、ということは予め懸案から外されている。

それでももしも、その人が本当に出来るはずも無いことが分かったら、それはもっと恐ろしい。「通常の人が出来るはずなのだから、そのひとは 通常 ではない」ということになるのだ。

ただそのやり方では出来ないというだけなのに。

 

子どものころからしばらく受けていた教育は、そういう構造を持っていたことに最近になって気づいた。恐ろしいと思った。そしてその構造をほとんどおばさんになった今でも十全に批判出来ていないことにも気づいて恐ろしくなった。私はきっとごく自然に、私がごく簡単に出来ることを出来ない人を見て、ああ、あの人は私よりちょっとバカなのね、と見なすことが出来る。努力や経験や情報がないから出来ないんだわと思ってしまう。毎日約束を忘れてしまうあの子は私と少し認識の造りが違うのかも知れない(そこに当然優劣はない)。それでも同じことは出来るはずだと当たり前に思い込んで。

 

行動療法という精神療法がある。これは予想されるシチュエーションで、適切な言葉を言えるようになるために、台詞や行動の台本を作って練習するものだ。例えば、「買い物に行く」シチュエーションで、「こんにちは」「いい天気ですね」などの雑談の仕方、お金を渡すタイミング、などを組み込んで練習をする。ある人はこれを「生きる練習」と言った。

私が就職の面接の相談を知人にした時、行動療法的な解決策を取るべきだ、と言われたことがある。すなわち、シチュエーションごとにマニュアルを考え実行しろというのである。私はこれは充分に気持ち悪かったのでしなかった(でも、可能性のある方法は全てやるべきであるという声が聞こえた。面接にすら通れないお前はやり方を選べる立場じゃないんだぞとも)

その人の提示した対処法は、次の一言で要約できると思う。

「自分で考えてはいけない」

という命令である。後になってこれに気づいたときぞっとした。この命令さえあれば、おそらく誰であってもダメにすることができるに違いない。考えたいことを考えてもいいという自由は、世の中でもっとも大切なものだと思う。

 

 

(※行動療法については私は人づてに聞いただけであり、その人は行動療法について否定的な人でした。私自身が行動療法への意見を持ち合わせているわけではありません。ここでは話を進めるために彼の言葉を便宜的に引用しました)