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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

きみが化石になる前に

「彼 は 悪者である」

 

○○は××である、とは、一番基本的な文のかたちである。そしてそれは、普遍性をしめす文体だ。ソクラテスは人間である。そのとおりだソクラテスは生涯人間であって猿になったりキジになったりしない。彼女は女性である。それはそうだろう朝挨拶を交わした受付嬢が帰りに男性になっていたことはない。

 

言葉のもっとも基本的な文法は、動かないものを示すかたちをしている。

でも、わたしには疑問がある。悪者だと言われた彼は、常に悪者なのか。

 

 

わたしは、自分の思っていることを言語化することを、ほら理科の実験であったでしょう、植物の茎を薄く切り取って定着液をかけるアレ、ああいうふうに観念を切り取って固めて言葉というプレパラートを作るようなものだと思う。言葉にして取り出すとそれを客観的なモノとして扱うことが出来る。ぴちっと定着したものは誰が観察してもいつ観察しても同じ見た目だ。言葉の機能は伝達だから、元々どこまでも届く公共性をもっている。だから、わたしたちは言葉をつかって思考している限り、頭の中のことを言語化して共有することが出来るのだ。(そのため、個人の観念を言語化することはほんとうは究極的に公共的なしごとだ。)

そうしてできる言葉を私は、言い方はわるいけど観念の死体 のようなものだと思う。

 

アフォリスムは死体のなかの死体だ。「人間は考える葦である」大昔のパスカルの言葉をいまでも教訓に出来る。それはまるで化石だ。化石はこわれにくい。動かない言葉はシェアしやすいのだ。

 

原則として、世の中に起きる物事について考えるために、あらゆるものは名前をつけて示される必要がある。ラベルはいつも貼られている。視線がある限り、名付けられることから逃れるのは不可能だ。そしてそのラベルは、忘れられやすいが、書き換え可能だという特徴がある。ものにラベルが貼られているという構造は変化しない。でもラベルの名前は変化するのだ。小学生は成長して中学生になり高校生になる。青年は社会人になり成功者になり、富豪になりうるし落伍者にもなりうる。君の富や安全は普遍的ではあり得ない。ラベルは書き換えられざるを得ないのだ。動いて変化するというのが生き物の現実だ。現実と言葉のあいだにはズレがある。

 

冒頭の「彼は悪者だ」のように、人を固定する言葉を使いすぎると現実を間違って捉えてしまう。それがポイントなのだと私は思う。

たとえば、不勉強なために、差別的な発言をしてしまう人があるかも知れない。そこで彼を差別者と名付けてしまうと相互理解の可能性が閉ざされてしまう。

たとえば、自分は努力家だから努力しないと自分ではいられないという思い込みに苦しんでいる人がいるかも知れない。その苦しみから逃れるには、あらゆるラベルは書き換え可能だというところに注目しないとはじまらない。

 

誰でも、一時の状態を普遍的に語られたら違和感が残るだろう。私たちは動いている状態を訪ね続ける必要がある。それはとてもコストのかかることだ。「○○は××である」の一言では処理しきれない。でもわたしは大切なところでは、大切な人には、湯水の様にコストをかけたい。正しさに開かれていくために。

 

あなたを死体にしてしまわないように化石にしてしまわないように、生きているあなたに訪ね続けたい。あなたは、いまどのように動いているのか。

 

 

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