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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

善と偽善

制度が人を殺すなら僕は偽善者になりたい。

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制度の機能は「はさみを入れる」ことだ。例えば年をとって働くことができなくなった人の支援を考えよう。お年寄りはわかものよりも体が弱く長く働けないのだから、生活費をすこし国から補助することにしよう。でも、どこからを「お年寄り」とすればいいのだろう?そうだ、皆がもっていて比べやすい基準に「年齢」がある。一年の長さは皆にとって同じだし、これなら平等に違いない。

 

ホウリツ「75歳以上の人の生活費を毎月○○ポンド補助することとする」

モクテキ「体が弱く働けない人を国が支援する!」

 

ところで、ここに一人貧しさに苦しむ人がいる。彼は先日階段から落ちて足を骨折してしまった。年のせいか治りが遅く、働きに出ることができず困っていた。彼は老人の生活を支援する新しい法律ができたことを知った。彼は喜んで役場へ出かけたが、彼は74歳だった。

 

ホウリツ「75歳以上の人の生活費を毎月○○ポンド補助することとする」

モクテキ「体が弱く働けない人を国が支援する???」

 

制度は平等に運用するために基準を客観的に示す必要がある。制度の基準は人間の間に線を引く。人を助けるための制度は、時に人を切り落とすためのはさみとして機能してしまう。

 

 

ところで、平等なのが制度だとすれば、逆にまっったく不平等なのが私たちの心だ。

「困っている人を助けたい」という時に、「困っている人」「助けたい人」を選ぶ拠り所はわたしたちのエゴイズムだ。そこにははさみの様にクールな客観性基準など存在しない。どうしようもなく傲慢ではさみよりずっと熱い燃えるようなエゴイズムがあるだけだ。

 

「困っている人を助けたいエゴ」に従って、ホームレスの人に消費期限切れのお弁当を渡すコンビニの店長の話を、インターネットで目にした。(細部は曖昧なので事実かは分からない)店長は葛藤をしながら、ルールを犯しながら、それでも困っている人を助けたいという熱いエゴの声を無視出来ずにお弁当を渡す。誰かに見られたらお店に迷惑がかかるかもしれない。もしかしたら期限切れのお弁当を食べてお腹をこわす可能性だってあるかもしれない。それでも、この状況ではこの行動をとることが一番正しいのだと思わずにはいられずに。

 

変わりうるルールや、予想しきれない結果を気にせずに、今ここで一番「正しい!」と思える行動を選ぶことだけが善意である、と言ったのはカントだ。(自らの行動の格率が普遍的な格率と一致するように行為しなさい)正しいと自分が確かに思ったことを行為すること。その意志の中にしか(狭い意味での)善はない。結果を見て、「痛んだお弁当を食べさせてお腹を壊したからあいつは最低なことをした!」とか、周りが観測した行動で善や悪を判断するのは間違っている。(それは悪ではなくて罪、つまり道徳の領域になると思う)

ほんとうの善意は目に見えないのだ。

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困っている人がいる。わたしの好きな人だ。助けたいと思う。助けるための行動は取れるけれど、それはえこひいきと言われるかもしれない。でも、わたしは政治家ではない。わたしにできることなんて全てがえこひいきだ。わたしはわたしの意志でえこひいきをしようと思う。それが偽善だと言われたとしたって、ほんとうの善は誰にも見えないから、関係がないのだ。