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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

わたしに心があることは秘密だから小さな声で語ろう

「AIに人権は必要だと思う?」

ある日友人とそんな話をしていた。わたしは彼の問題提起がわからなかった。AIって詳しくないけど、人工知能のこと?商品をレコメンドしたりカスタマーサポートをしたり、高い情報処理能力を生かして煩雑な事務作業に役立つだろうと言われている、あれのこと?そう、そのことだと彼は言う。人工知能は情報処理能力がすぐれているだけではなくて、自己学習をするのだという。それによって人間には思いもつかない推論をしたり、解決されていない問題の解決方法を導き出すのだと。

「それはもう、機械じゃなくて、例えば人間の子供のように独立した存在だとみなすことができるわけだよね。そういうものに対して人権が必要なんじゃないかっていう議論があるらしいよ」

私はますますわからなくなってしまった。だって機械じゃない。独立した存在とみなしたとしてもそれは「見立て」であって、だったら俺のアニメヒロインには何故人権がないのかとか、私のぬいぐるみは何故人権がないのかとか、そういう話になってしまう。「それは人間らしい振る舞いをするものに対する生命の見立てであって、法的に権限を与えていい根拠にはならないよ。」と私は答えた。そもそも人権が付与される「個人」は社会的な用語だし、責任の主体の単位ってだけの話だから、社会的責任を負えないAIは個人ではないのでは、という話もした。そう、機械は責任も果たせないし、魂もないし…。魂?

 

さて、魂の根拠とはどこにあるのだろうか?

 

AIにもぬいぐるみにも魂はないことを私はどこで確信しているのだろう?ここにきて、「魂は主観的に確信できるけど、客観的に観測できない」ということに気づいてしまう。(他人には魂はあるのだろうか?)これは結論の出ないテーマ、一見社会を崩壊させるような危険をはらんだテーマに見えるけれども実は非常にポップなテーマで、なぜならこのことを考えたことない人は殆どいないに違いないから。昔小学生の頃、永井均だったかな、「自分以外のすべての人間がもしかしたらロボットかもしれない、という考えを作文に書いたら、先生に『もっと世界を素直に見ましょう』と怒られた」という話を読んだことがあったのだけど、なあんだ、そんなことは私まいにち考えてるわ、とおもった。自分以外のすべての人間がロボットかもしれない。でも、そんな素直な疑いを持って世界を眺めていても、もしかしたらロボットじゃないかもしれないと思わされることが私にとってはあまりにもあまりにも多かったのだ。私が好きなものを好きと言ってくれること。私の考えを理解してくれること。辛いことを共感してくれること。

魂がないとは思えないふるまいがあまりにも多かった。30年くらい疑いの目で世界を眺めてきたけど、今のところは魂の存在への信仰は崩れていない(そう、これは単なる信仰でしかない)。かなり強固な信仰だと思う。

 

その信仰を裏打ちするように、たくさんの私の言葉を本の中に見つけた。

なんのことはない、自分の考えと同じことが本に書かれてあったということなのだけれど、初めの頃それは不思議な経験だった。『モモ』の「時間とは生活」、『キッチン』の「幸せとは自分が一人だということを感じなくていい人生」、プロタゴラスの「人間は万物の尺度」、その他いろいろ。本当にいろいろ。

自分の考えていることがすでに書かれてあること。これだけが世界への信頼の根拠だ、と思っている。私と世界が繋がっていると確信できるとき、いつも泣くように安堵してしまう。どうして、自分の考えを自分が知っているだけではダメなのだろうね。これはずっと不思議なことだ。

以前「言語の習得」について本で読んだことがある。子供は転んで傷を作り、それを「痛いね」と言ってもらうことで「痛い」という言葉を学ぶのだという。言語は、初めのところから共感によって習得されるものなのか。もしかしたらそういうことが関係しているのかもしれないのだけど、理不尽な状況にあった時、共感してもらえるまで自分の感情を認められない、というような気分になったことはないだろうか。それは不思議なことだなと思う。感情があることは誰も否定できないのに。あるだけでいいことについて、どうして根拠を求めるのだろう。例えば痴漢にあった時。例えば暴力を振るわれた時。辛い感情を、誰かが共感してくれるまで感じてはいけない気がしたのは、どうしてだったろう。それは、あるだけでいいものだったはずなのに。