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paper sky

趣味で図画工作をするじむいんのweblogです。

道路標識が読めない日

私は自動車を運転している。

 

私が運転を始めて1年余りだ。運転は面白い。今はもうだいぶ慣れてきたけれど、未だに時々、新鮮な違和感に襲われるから。

例えば、自動車は内燃機関を持っている。毎日私は爆発する機械を従えて通勤しているわけだ。爆発する機械は時速80キロで移動し続ける。私はその上に乗っている。たよりないペダル(ブレーキ、アクセル)だけが頼りだ。爆発、高速移動、私は生身である。‥どうして死なないんだろう?と時々思う。

また例えば、私は道路のシステムを素晴らしいと思う。道路に線が引かれ、来る者と向かう者を分けていることを。あるいは信号を設置して、曲がる者と直進する者を分けていることを。右折レーン、横断歩道、進入禁止、など、道路のシステムは緻密で感心するばかりだ。そしてシステムが緻密なのはそれだけのトライ&エラーを繰り返してきたからに他ならない。そしてエラーというのはつまり、‥みなまでは言わない。

 

そして、そのような新鮮な違和感が強く襲ってきたことがある。とある夏日(夏の日のような夏日だった)ある道路標識を目にした時だった。

こんな風な標識だった↓

 

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その標識を目にした瞬間、私は次のような考えで頭の中がいっぱいになった。

「私にはこの標識が読めない頃があったのだ」

 

その日は夏日で、夏の日のような夏日で、一瞬だけ私のたましいは小学校の夏の、母の運転する車の後部座席に戻ってしまった。きっとみなさんにもあるでしょう、陽の暖かさや風の匂いが、思い出の一風景を切り取って唐突に見せてくることが。その時小学校1年生にもどった私は、ぼんやり空にかかる風景の一部として標識を見あげて、謎の記号、読めない漢字、シンプルな色、のコラージュとしてそれを見た。似た雰囲気の看板がありふれていることは知っていたけど、外国の地図のように意味のわからない、私に何も意味を語りかけてこない、絵画のようなものとしてそれを見た。

その一瞬がすぎて31歳になった(もどった)後、今度はそれは「この先300m、5号線を進むと目的地」という意味を指し示す標識として私の前に現れた。この揺らぎは一体なんだろう。標識は変わっていないのに。

 

改めて思うと、一生の中でものの見方が変わることはよくあることだ。屋根の煙突はサンタクロースの通り道ではなくなり、英語の本は呪文の乗っている魔法書ではなくなり、理科室の人体模型は夜中に動き出す幽霊ではなくなる。

しかし、それはとてももったいないことのような気がしてしまう。なぜなら大人の見方が優れているわけでは別にないからだ。そりゃあ常識は必要だけど、「未知」としての世界の見方より、「これは常識的にみるとこう」の方が別に面白いわけではない。それに、これは本当のことだけど、大人は別に世界に慣れているわけでも世界を知っているわけでもない。過去10年や20年そこらの、住んでいる地域限定の処世術に優れているだけだ。そしてそれは実は古びていたりして、古びた習慣がより面白いことを見るのを妨げていたりする。

そういうことを思うと、感覚として「標識が読める」と思える方が本当は特殊なんじゃないかな。だから、夏の日が偶然思い出させてくれるような揺らぎは、こっそりと、誰にも断らずに大切にしたい。

私はかつて「本当に」標識を読めない時があったのだから。