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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

ひみつの話のように

ふだん普通に暮らしていると考え事がたまっていく。

特別に考えようとしている訳ではないけど、それでも生活をしていると、ひとが思ってるけど言わないことについてとか、皆の眼差しで生じる上下関係についてとか、現状批判的な考え事が自動で頭の中に起こってくる。

それらをどのように外に置けばいいのだろう。とりあえず今はこのようにしている。

社会の中には普通があって、普通と普通でないものは注意ぶかく選り分けられている。普通でない物を普通の人は完璧に無視することができて、社会が全て普通の人、普通の話、普通の行為、で構成されている様にふるまうことができる。

しかし、ふるまいと実際はちがう。ヒトは本来的な意味でけものなのだから。美しく整理された普通の社会には置いておけないような怪しいものを懐に抱えている。それは例えば欲望のようなもの。愛のようなもの。きらめきのようなもの。あるいは殺意のようなもの。

よくできた宗教がその中に邪悪なものを内包しているように(たとえば仏教の欲。キリスト教の罪。)、優れたシステムはあらかじめちょっとした危険をその中に組み込んでいる。普通の社会もおなじで、社会にも怪しい物を置いておくための皿がある。

 

その皿のひとつの名前は 芸術 という。

 

私はソーシャルネットワークサービスがあまり好きではない。(まさに社会だから!)しかしツイッターをやめられていないのは、知らない誰かの何気ない呟きが、詩として鋭く胸を打つことがあるからだ。

私たちはソーシャルの中では顔があるが、芸術の中では顔がない。立場も肩書きも性別も年齢も時代も関係のない、ただのそのものとして作品はある。あなたの好きが私の好きと同じであることが、あなたの傷が私の傷と同じであることが、ただ指し示されて置かれている。

普通から見ると滑稽でいびつで、笑ってバカにされるようなことでも、芸術の皿の上なら見せ合うことができる。小さい頃先生から隠れて親友と話した、ひみつの話のように。

 

でも、笑ってバカにされるようなことなら、それは尚更言うべきなのかもしれない。

なぜなら、それは本当は笑われなければいけない様な物ではない のだから。

 

ツイッターで一人、神職の人をフォローしている。ある時彼女が祈りの言葉をツイートしていて、なぜか胸を打たれてしまった。こころから惑いや苦しみを解いて清浄な水のように清めて下さい、と竜宮の神さまに祈るための言葉だった。

信仰を持っている人の書くものをSNSで読む機会がたまにある。神人であれキリスト者であれ、その信仰を持つ人が自分の仕事に対して覚悟を決めるとき、かれらは神のことを口にする。信仰を持つ人は私にはすーっと一つ背筋が通っているように見える。まなざしの向かう先が決まっている。

ひとが社会と対峙するとき、派閥を組んで議論をしたり、命令に反抗したりするやり方がある。立場を出して、顔を出して、与えられたものとたたかうやり方。それに反して、私の見た信仰がある人のまなざしは、仕事にただ向き合う、行為するという態度であった。批判や誤解をものとのせず、言い訳もせずに。
それは祈りの姿勢そのものだとおもう。


信じるものをただやるという祈りの姿勢が、もしかしたら生活に対する一番素直な姿勢なのではないか。
そのような姿勢を、わたしは持つことができるかしら。怖がらずに。


ところで、わたしのような大人が絵を描いていると、何のためにつくっているの?という質問を受けることがある。それにたいして、わたしはいつももやもやと答えに困ってしまう。「楽しいから、見てほしいから」などど答えるけれど、それも何か違う気がしてしまう。
わたしは何かのためにものを作っていると言うことが苦手だ。例えばお金のためとか、誰かを見返すためとか。もちろん作ったものを買ってもらえたり、ほめてもらえるのはものすごーく嬉しいことだけど、口に出すとそれが本当の目的ではないというのは自分でわかってしまう。そうして、目的のためにやっているのではないということも。

うまく言えないけれど。

もっと素直に暮らせばこのような、ホンネとタテマエみたいな二重言語も使わないですむのかもしれない。


そんなふうなことを、自動的な考えごとの中でふわりふわりと思っていた。