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図画工作をするじむいんのweblogです。

教室から出られなくするもの

今年の8月31日は「学校に行きたくなかったら、無理に行かなくてもいいよ」というキャンペーンを所々で見かける。なんでも、悲しいことだけれど、2学期が始まる9月1日が1年で一番子どもの自殺が多い日らしい。
「無理に行かなくてもいいよ」というのは、良い語りかけだと思う。でも、良いニュースが大きな声で語られているので、ちょっと戸惑ってしまう。
(「良いニュースは小さな声で語られる」は村上春樹ですね。「ハルキスト」って言葉が出る前から、村上春樹の小説は好き。)

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いじめのニュースの感想として、たまに厳しめの自己責任論を見かける。「部活でいじめられようとも、本人がその部活を選んだのだから自己責任」とか、「職場いじめで心身の調子を崩しても、それは通い続けた本人の自己責任」とかいうような意見。

そういう、「本人がやりたくてやったからいいだろう」という意見は、なんだか乱暴な気がしている。

わたしはいじめられていた訳ではないけど、100パーセント学校が好きだった訳でもない。ほんとうに「学校に行きたくて行っている」のか、「学校に行きたくないが行かされている」のか、それとも「学校には行きたくないけど社会から外れそうで怖くて仕方なく行っている」のか。ほんとうの気持ちはいつもなかなか複雑だった。

でも「学校に行くほうを選んだのだから、それはやりたくてやってるってことだから、学校に行きたくないって言うのは甘え」って言われてたりしたら、ひゅっと気持ちがちぢこまってしまう。

こういう風な、他人から押し付けて言われる「自己責任」に、いつも違和感を覚える。なぜなら、全体主義のコミュニティで言われる「自己責任」とは、実は自己責任でも何でもなく、同調圧力のことだから。

 

 


むかし学校で思想の授業に出ていたとき、教壇に立った先生がふとこんなことを言った。「あなたたちは、なぜそこに座っているのですか?」

なぜ、わたしたちは教室に拘束されていたのだろう。これは不思議なことだ。少なくとも、そこに居たくて居る、という単純なことではなかった。

教室でなくて会社でもいい。なぜ、個人は自由なのに、毎日何時間も同じ場所に拘束されているんだろう。もう自由に生きられるはずのいい大人が、みんな机のほうを見て、のっぺらぼうのような顔をしているのはなぜだろう。
でも、そう言われたからといって「会社で自由に振舞わなければならない」と急いで考えるのはおかしいね。それはそれで「自由っぽいふるまいを求められた流れに従っている」だけだから押し黙ってるのとかわらない。

どうやら、学校や会社という場所にはなんらかの権威が働いているらしい。
権威とは、従わないとひどい目にあうぞというような外側からの意志のこと。その場にいる人に「~しろ」という命令をするもののこと。

教室という場には様々な意志が働いている。
その時、よく意識しておくと良いのは、じぶんから沸き起こる「内側からの意志」と、命令のような「外側からの意志」がそれぞれ何かということ。

自分の意志だけで、「居たいから居る」だけという環境は実はとても少なくて、あらゆる環境には複数の方向の意志がからみあっている。

学校という場所であれば、例えばこのようなさまざまな意志。

→友達に会いたい。

←みんなと仲良くしなさい。(さもないと仲間外れになるよ)

→好きな図工をしに行きたい。

←勉強をしていい点をとりなさい(さもないと将来大変なことになるよ)

→嫌な子がいるから会いたくない

←ちゃんと毎日学校に通いなさい(さもないと立派な大人になれないよ)

 

「こうしたい」という内側からの意志と、「こうしなさい」という外側からの意志がいつも入り組んでいるから、環境に対するじぶんの意志はいつも部分的にしか発揮されない。
だから、「いやいやながらも認めたんだからそれは全部おまえの意志だ」というのは、間違っている。くるしい環境に置かれている人は、外側からの意志を「これはお前の意志」とずれて理解させられているケースが多いんじゃないだろうか。

「本人がやりたくてやったからいいだろう」という単純な決めつけで他人を断罪するときは、実はその人に興味がないか、何か他の理由でそう決めつけなければいけない時だと思う。

そんな雑な決めつけを、ほんとうは真に受ける必要はないんじゃないだろうか。

だって、それを受け入れて喜ぶ人は、誰なんだろう。