きたないは悪い
◇今日は文章のみの更新です(マンガは数日後に~;!)◇
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友人の話。
友人には外国人の同級生がいる。
ある日友人と外国人の男の子が一緒に電車に乗っていたそうだ。
外国人の男の子は「どうして電車の中で食べたり飲んだりしてはいけないの?」という疑問を友人に話したそうだ。
確かに、そういったルールははっきりと明文化されていない。しかし、程度にもよるけれど、もし電車の中でおおっぴらに飲み食いしていたら私はその人をマナー違反だと思うだろう。周りを気にせずムシャムシャ食べている人に、少しばかり、不快感を抱くかもしれない。
はたして、不快感を共有していない人に、そういう暗黙のルールはどう響くのだろう?
友人はこういう、根拠を上手く説明できない、明文化されていないルールを「妄想」と言っていた。ひとりの人間がみる妄想ではない。集団がみる妄想だ。根拠の見当たらない思い込みという意味では、なるほど、的確な比喩だ。
ところで、不快感をおぼえるかどうかには主観的な境界がある。
「境界」について言及している有名人に、私の大好きな作家の川上未映子さんがいる。彼女は例えば「唾」などの境界が気になるのだという。唾は、口の中では普通にごんごん飲んでいるのに、口から出した途端に汚いものになるのはどうしてだろう。と、彼女は言う。確かに物質は同じなのに、何故か不快感を覚えるようになる境界がある。
ひとつ前の話を思い出そう。
明文化されていないルールとは集団的妄想だ。
ここで一つの例を挙げる。わたしがわたしと異なる文化圏の人々の食卓に招かれたとしよう。この文化では唾は汚いものとされていない。口の中でも、口から出しても唾は汚くない。だから例えばここのおうちでは食事中に来客が来たとき、モグモグ咀嚼しているものをいったんお皿に吐き戻して、玄関でお客様の対応をして、そのあと食卓に戻ってもう一度吐き戻したものを口にズズッと吸い込んでモゴモゴ食事を再開してもオッケーなのだ。
(書いてるだけでぞうっとしてきた…)
わたしはきっと耐えられなくなって「あ、用事あるんで!」などといって嘘をついて逃げ出そうとするだろう。「唾は汚くないですよ、あなたも飲んでいるじゃないですか」と説得されても、論理的にはそれが正しくても、すぐに不快感は克服できない。不快が論理的に出来ていないからこそ、不快を共感してもらえない環境は恐ろしい。そう考えると、わたしたちが妄想を強化してしまう原因のひとつは恐れなのじゃないだろうか。
その恐れにそそのかされて、妄想は沢山の苦しい言い訳をつくる。
中東のある国では、女の人が社会で働くことに厳しい制限がある。女性が家の中にいることが美徳なのだ。(それでいくと、外で働く女性ははしたない=汚い とみなす見方があるのだろう)その背景に以下のような格言があるそうだ。
「女に助言を求めてはいけない。なぜなら、女の思考力は愚鈍であり、決断力は脆弱だからである」
←そんなのは妄想!だって私は思考力に優れて決断力が大いにある有能な女性を沢山知っている。反例はいくらでもあるのだ。こんな妄想がまかり通ってるなんて、プギー!! …と思う。
では、妄想を持つ人々が、妄想を批判することは不可能なのだろうか?
私はそうではないと思う。
私たちのルールは妄想なんじゃないかしら…?と自分で疑うことと、「お前の不快感なんか妄想だ!(だから出した唾をズズーっと飲め!)」と外的に強制を受けることは違う。だから厳しく叱責を受けた妄想者が、逆にその妄想に固執してしまうのも無理はない。しかし、妄想はすぐには克服できないけれど、妄想であると自覚することは出来る。
私たちはおしなべて知性的なのだから、集団的妄想に疑問を持って、いま、不快だと見なされていることや人が他の見方ではどのように見えうるのか?また、どのように扱われうるのか?という疑問に、開かれていくことは可能だと思う。
唾は汚い/唾は汚くないかもしれない
負けることは汚い/負けることは汚くないかもしれない
貧乏人は汚い/貧乏人は汚くないかもしれない
同性愛は汚い/同性愛は汚くないかもしれない