のっぺらぼうの顔
道を行く人の顔が分からない。
わたしは道を歩く人の顔をあまり見ない。デッサンをして習ったことだけど、人は目で見る情報の多くを落としている。頭の中で情報がごちゃごちゃにならないように、必要な情報だけを取捨選択しているのだ。例えばコップに注がれた水を見るとしよう。「コップ」「水」は見てわかる。でも、水の色とコップのガラスの色の違い、水を通して屈折して見える向こう側の机、ガラスに映り込んだわたしの顔、なんかは、情報を捨てている。デッサンではそれを拾うように、時間をかけて見る。時には何時間も。デッサンは手でなく目を鍛えるものなのだ。
わたしは人の顔の情報を落としている。歩くわたしにとって、道を行く人の顔はのっぺらぼうだ。そうして、のっぺらぼうには、キャラクターがない。絵を描く人は分かってくれると思うけれど、キャラクターは解像度を下げるほどアノニマスになる。顔が分からなくなるほど、誰でもなくなる。
だから私にとって道行く人は何でもない人だ。
でも、それはわたしにとってだけの話。
ある日、電車に乗っていて、考え事をしていた。何を考えていたのかは忘れたけれど、わたしは考えて考えつめて、考え事のもやもやでその電車の空間を埋め尽くしているような気分だった。そのときふと顔を上げると、両側の座席に人が並んで座っているのが見えた。わたしはその瞬間こう思った。
「ここにいる全ての人が、わたしと同じだけの『頭の中』を持っているのだ」
ほんとうに当たり前のことだけど、それに気づいたときわたしの背筋は凍った。その世界の大きさに。面積の広さに。
そうして、そんな当たり前のことをいつも忘れていられる、自分の想像力のなさを思い知った。
わたしは想像力がない。例えば、殺される牛の恐怖を思わずにもりもりお肉を食べることが出来る。例えば、大量殺戮される稚魚の地獄を思わずにもりもりちりめんじゃこを食べることが出来る。おいしい。
わたしは想像力がない。女の子が拉致監禁されたニュースに絶望した一時間後にクイズ番組で笑うことが出来る。一分前に会社員をひき殺した電車で仕事の打ち合わせに出かけることが出来る。
でも、同時に歴然とした事実がある。
わたしがのっぺらぼうにした女の子にも会社員にも、顔があるのだ。
ぞっとするほどの大きさの世界がある。
わたしは想像力を持ちきれないし、生きていくのに忘却は素晴らしい機能だ。ただ、機能とはべつに現実がある。想像力を持ちきれないことを自覚するのと、想像しきれないところに現実があることに気づくのは表裏だ。表側の事実を自覚したとき、裏側の事実があらわれる。
すれ違うだけのクラスメイトにも感情がある。ばかに見える群衆にも信念がある。ニュースの被害者にも欲望がある。ネットで怒る人にも家族がいる。難民にも夢がある。
のっぺらぼうには、顔があるのだ。