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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

時間泥棒はモノとして何をぬすんだのか

子どものころ、時間を「時間」と言えることに違和感を覚えたことがあった

「時間」は何を指しているんだろう?そこに形は無いのに

きっと「時間」は「無い」のだ、と思った。

でも「無い」という言葉では何も言い得ていないな、とも思った。

 

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時間は実体のない抽象概念であるけど、そこには数量化して基準に出来る程の共通了解がある。しかし時間は見ることも触ることも出来ないのだから、その基準としての確かさには「皆が信じているから」以上の根拠は無いのじゃないだろうか。きっと「時間」という言葉があるから時間を扱うことが出来るけど、時間は言葉以上のものでは無いのじゃないだろうか。それなら、「時間」という言葉が無くなるとどうなるのだろう?

 

ということをぼんやり素朴に思っていたら、「時間」という語をもたない民族をみつけました。

アモンダワ族

時間の概念がない!? アモンダワ族の人々の生き方が凄い - NAVER まとめ

>南米、アマゾンの奥地アモンダワ(Amondawa)に住む人々は、時間に関する抽象的な概念がない。時計やカレンダーも持っておらず、使っている独自の言語の中にも「時間」、「週」、「月」、「年」を意味する言葉がない。彼らの世界には「昼」と「夜」、そして「雨期」と「乾期」の区別があるだけだ。

 

 

ここでは時間は目に見える「空間の変化」として捉えられているようだ。

(「変化」というものは空間的でも時間的でもある。そもそも時間と空間も元から分かれているものではないだろう、と思う。例えば、空間という語と時間という語のふたつに含まれている「間」という語は、日本語では時間と空間の両方をさす。)

時間軸という基準をもたなくても、空間軸の認識だけで生活はできるということだろうか?

 

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上のイラストはミヒャエル・エンデのモモ。

『モモ』では時間は音楽という比喩であらわされています。

時間自体への疑問をはじめて肯定してくれたとても好きな物語です。

 

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