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図画工作をするじむいんのweblogです。

できないをあつめる

できると思っていた。

 

高校三年の夏、美術の学校に行ってデザインを学ぼうと決めた。

芸術は価値が判定しにくいけれど、デザインならば技術だろうから習得出来るだろうと思っていた。当時、デザイン科にエントリーするにはデッサンと論述が要った。デッサンの練習をはじめるとき、美術の先生が私に言ったことはひとつだった。

「見たように描きなさい」

 

 

台の上に設定された静物をみて、だからそれをそのまま画用紙に写し取ればいいのだろうと思った。静物は立体だ。紙は平面だ。いま見えている視野の範囲で(だから視点はうごかしてはいけない)目のスクリーンにうつっている濃淡をそのまま紙に出せばいいのだろう。

周りでは輪郭線から描き始めている人が多かったけど、私には輪郭線は見えなかった。静物のふちに線はないから。私は画用紙の全体を鉛筆でグレーに塗り、設定の濃く見えるところはより濃いグレーを、薄く見えるところは練りゴムで鉛筆の粉を取っていった。そういう風にして描いて出来上がったのは、もやもやとしたなんだかよく分からない鉛筆描きのモザイクだった。

できない、と思った。どうすればできるかわからない。

それは実際にやってみるまでわからないことだった。

 

その後もたくさんの「できない」をあつめた。論述で文章が時間通りかけない。テーマに対して言いたいことがかけない。デッサンで石膏の形が描けない。じょうごに入った水の暗さが描けない。

それは高校生だった私には脅威だった。今まで減点法で自己評価するように学んできたから。目標は100点。それに足りなければマイナス。学生の本分は学業なのだからマイナスは人として不足であるに違いない。ふるえながらデッサンを描いた。

何とか大学に入った後も、あまりにもできないことが多かった。

かなりしばらく経って「作品の方向性と成果は自分で判断していいんだ」と納得が出来て、焦りは無くなったけど、それまでに沢山のできないをあつめた。

今でも、「できた」「達成した」とおもえることは実のところあまりない。まあ出来上がったものに対してまあまあ好きだな、と思うことはあるのだけれど、それでも「ここをこう変えたらどうだったろうか」、「ここはもう少し緻密につくれないか」、などと考えたりする。

先にはいつも先がある。

 

できないを沢山集めたとき、「できない」はわたしが物事にぶつかって確かに触れた証拠として残った。それは(あきらめではなく)達成の形としてたしかに手触りのあるものだった。「できない」の手触りほどわたしに信頼できるものはなかった。