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マンガ作家、コジママユコのweblogです。

センスと才能

禁句を作るのが好きだ。


禁句といっても、「○○を言うの禁止!」などど人に強制するタイプのものではなくて、自分で「○○って言わないようにしてみよう」と決めるのが好きだ。

たとえば、「アート」という言葉。「アートは自己表現」「アートとは生きること」「アートは癒し(!)」…さまざまに言われていて意味が分からなくなる。「アート」という言葉を何気なく使うと、「アートってそんなもんじゃない」という風に「アート定義論争」を吹っ掛けられてしまったりする。そういうとき、私は混乱しないように自分に言葉狩りをする。「アート」を禁句にする。するとどうか。

「(歴史的な具象絵画は)記録」「(アートワークショップは)コミュニケーション」「(ある種の現代美術は)社会規範への疑問」…言い換えることで意味をはっきり自分で認識できるし、人にも伝えたいことが伝わりやすい。このようにして私は禁句ごっこをする。自分の頭をすっきりさせるために。

ところで、10代のころから、長い間禁句にしていた言葉がある。
「センス」と「才能」だ。

 

 

 

なぜ「センス」と「才能」を禁句にしていたかというと、
1.意味がふわふわしていてよく分からない
2.よく分からないけど大事なものとして信仰されている
3.よく分からないけど信仰されてるから、人を否定するために使われがち

という、「『おまえはセンスも才能もないんだから絵なんてやめなさい』と言う人がセンスも才能もなんのことだか分かってない・現象」がちょくちょくおきて、いや〜んなって使うのをやめたのだ。
センスと才能をよりどころにして人や作品を否定する人ほど、美術に関心がないように思われた。そういう人らは恐らく、何らかの権威をもとに人のありようを否定したい一心で、センスや才能という言葉を使うのだ。そこで言われる「センス」や「才能」の中身はまったくの空っぽのように見えた。

 

(からっぽのセンスや才能なんて、美術をやるうえで全く必要ないんじゃないか?)


そう思ったので、学校で美術をやっていた7、8年間くらい、「センス」と「才能」を禁句にした。特に問題はなかった。色遣いがまずいポスターを見たときは「センスが悪い」じゃなくて「視認性や色の調和を考慮していない」と言えばよかったし(視認性や色の調和については個別に説明できる)、作品作りに迷走している人を見たときは「才能がない」じゃなくて「今ちょっと迷走してるのね」と言えば良かった(迷走には身に覚えがある)。人を批判するときは自分の定義している言葉だけでする。それは重要なことのように感じられた。

しかし、ここ数年どうしても「センス」と「才能」という言葉を使いたくなってしまう場面があった。
例えばわたしは2012年ごろインターネットを中心に活躍していた「安全ちゃん」がとても好きだったのだけど、彼女をほめるときどうしても「センス」という言葉を使いたくなってしまった。彼女のテキストには、言葉遣い、モチーフの選択において一貫したものが流れていて、そしてその方向性を選び取っているのは彼女のセンサーに他ならない。どうしよう、センスということばがしっくりくる。
また例えば、水野しずさんのLine blogがいま好きなのだけど、彼女の書くものをみると「天才」という言葉を使いたくなってしまう。「ボケ/ツッコミなしで会話をするコツ」等のエントリを見ると、状況を見抜く力、推論、文体において、彼女の特異性が光っていて、それはまさしく天才という気がしてしまう。天(なんだかよく分からないけどすごい)から賜った才(なんだかよくわからないけどきらきらしている)。はっきりと正体を暴けないけどとても素晴らしい「方向性」や「特異性(個性と言い換えてもいい)」に対して、わたしの「センス」や「才能」という言葉のイメージは当てはまるらしい。

もともと、良いもの、好きなものというのは昔からそうだった。嫌いなもの、嫌なものは説明ができるけど、好きなものはどうして好きなのか説明がしづらい。得体が知れないほどに視野を暴力的に拡大してくれるものが「とてもいい」ってことなのだろう。良さは未知の方向から来ている。こうして禁句にした後で私はその言葉をもう一度掘り出した。どうしようもなく圧倒的に良いものを指す褒め言葉として。


禁句にした後に言葉を再発見する。

一週回った後に結局常識的なところに落ち着くことが良くあるのだけど、(このようにしないと混乱を克服できない)
初めから何も考えず常識的なふるまいを選択できる人の方が、コストのかからないすぐれた生活をしているように思えることが、ままある。

考えるコストをはぶいた暮らしなど、何の味気もないのだろうけど。